「ジャムパン」と「メロンパン」
スーパーで買い物をしていて、
特売の表示があるパンコーナーに差し掛かり、
”ジャムパン”を買おうと思い、それを手にした。
すると、
コーナーの端に置いてある“メロンパン”が目に入った。
”ジャムパン”を元に戻し、“メロンパン”を買うことにした。
“メロンパン”は糖質が高そうなので、
私が食べることだけを考えると、“ジャムパン”を選ぶのだが、
妻の遺骨箱の前にお供えすることを考えると、
妻が好きだった“メロンパン”になる。
お供え物の“メロンパン”は、
妻が食べるわけではなく、最後は私の口の中に入る、
そこに妻はいないのに、なぜお供え物を置くのか?
物理的に考えると、「なぜ」ということになるが、
“亡き人に向けた拝む側の心の表現”と解釈すると、
納得がいく。
遺骨箱の中に妻はいなく、妻の骨(物質)しかないが、
「千の風になって」の歌詞にもあるように、
こちらの想いに吸い寄せられるように、
妻の魂は0秒で私の傍にやって来るだろう。
妻は、闘病中、
「お墓に入るのは、知らない人がいっぱいいて怖いから嫌だ」
と言った。そのため、妻の遺骨は手元供養することにした。
それを聞いて、妻は嬉しそうな顔をした。
これは、
“自分が亡くなった後でも存在していること”を
前提としての妻の言葉だと言える。
もう一つ、話がある。
犬好きな妻は、
生前、近所にいる「ハチ」という名の柴犬を撫でるため、
仕事帰りに立ち寄るのを楽しみにしていた。
いつものように犬を撫でに行ったところ、
ハチがいないので、どうしたのだろうと、周りを見回していた時、
見知らぬおじさんが、後ろから現れ
「ハチは死んだよ。愛されてて幸せだったんじゃないかな。」
と妻に言い残して、その場を立ち去ったとのこと。
「あのおじさんはハチだったんじゃないかなあ」と
妻は興奮気味に私に話した。
私は、「そうなの」とだけ答えて、“共感”を示さなかった。
その時は、正直、「そんなはずあるわけない」と思っていたので、
こういう反応になってしまった。
愛する犬の死を知った後の、この妻の発言は、
まるで“魂”の存在を信じているかのようである。
これら生前の妻の言動を思い出し、
妻は、
「死んでも次がある」と考えている人だったかもしれない。
そうだとしたら、
「妻は可哀想ではない」と考えることが出来、
こころの霧が晴れる思いがする。