これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

思い切り悲しんで生きる

私は、毎日、妻を想っている。


そうしている時の自分が誠実に見え、
他のどの行為をしている自分よりも好きだ。


想っている時、
妻に向かって何かを発信している感覚があり、
それが心地良い。


でも、以前と違って、何かが足りない。


それは、
私から妻に向けた矢印はあっても、
妻から私に向けた矢印がないことが、理由だろう。


想いは一方通行になり、双方向ではなくなった。


これが、幸福感の減少に繋がっている。


妻は、私を想ってくれていて、そして、頼ってくれていた。
何の取り柄もない私であっても、妻はそうしていた。


そうされることで、
私は、自己肯定感を高めることが出来ていた。


しかし、
その妻はもういない。
自己肯定感は下がってしまった。


でも、
双方向ではなくなっても、
“想うこと”の価値がなくなった訳ではない。


妻を想っている時は、
多少の悲しみも伴うが、
“副交感神経”が働いていて、
“心のマッサージ”を受けているようで、
変な比較になるが、
“体のマッサージ”を受けている時よりも気持ちがいい。


やはり、
妻と私は一体であり、
関係は切り離せないことがわかる。


想いの強さは、愛情の強さに比例する。
悲しみの強さも、愛情の強さに比例する。


思い切り想って、思い切り悲しんで生きてることは、
自然であり、間違ってはいない。

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