これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

二人の自分

私には、現在、二人の自分が存在する


以前は、一人の自分でよかった。
妻とのより良い生活だけを考えていればよかった。


妻を亡くして、二人の自分になった。


一人は、
妻を亡くして、
孤独と共に「今」という「現実」を生きている自分。


もう一人は、
いない妻と繋がろうとしながら、生きている自分。
「過去」に想いを寄せている状態と言える。


妻が、生きていたら、
二人の自分は必要なかった。
現実生活だけを見て生活すればよかった。


でも、
妻の死は、
現実生活に加えて、
“私の過去の歴史”に目を向けさせることも加えた。


言ってみれば二重生活、もしくは二刀流。


肉体主体で動いている時は、私は「現実の世界」にいる、
心に神経が向かっている時は、「私の過去の歴史」に入っている。


割合からすると、
「現実」70%、「過去」30%というところか。
一日のうちに、二つを行ったり来たりしている。


本当は、
「二人で過ごす現実」だけでよかったのだが。
人は、いつかは死ぬのだから、
来るべくして来た生活形態を、受け止める寛容さも必要か。


肉体主体の生活は単純で分かりやすい。
目の前のことを、こなせばいいだけのことだから。


それに対し、
心が過去を訪れている時は、単純ではない。


そこには、
「後悔」、「喪失感」、「悲しさ」、「辛さ」などに加え、
「楽しかったこと」など、プラスの粒子も混ざっている。


肉体主体の時は、自分がロボットであればいい。
心に入った時は、自分が“人間”でなければならず、
“複雑性”に対処しなければならない。


死ぬまで、二刀流の生活は続く。

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