これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

“死”は必要か

世界の中で「死んだのは妻だけだ」
という様な感覚の中で私は生きている。


テレビで有名人の訃報が放送されるのを見ると、
良くないと思うが、本音を言うとほっとする所がある。


死んだのは妻だけでは無いんだ、妻だけがかわいそうではないんだ
という気持ちになれる。


私もいずれは死ぬ。
不死の薬が将来出来るかどうかはわからないが
今のところ死なない人は一人もいない。


今後は、人間と見分けがつかない“ロボット”が出て来ると思うが
死ぬことが無い“人間もどき“ であり人間ではない。
感情はもともと持っていないので
感情面で言うと、出来た時から死んでいる。


“死”が無ければ、人間は、限りなく感情を持たない“ロボット”に近づいていく。
深い情緒は“死”に関係している。
“死”という有限なものが有ることで、
喜び、ものの哀れ、孤独の悲しみ、別れの悲しみ、などの感情を持つことが出来る。


死ぬことが無いロボットは、感情を持つことが出来ないため
好きな人とのふれあい、楽しかった思い出を持つことは出来ない。


感情を持たない永遠に生きる“ロボット”のような人と
命が有限だが心のふれあいを持つことが出来る人間、
どちらがいいか。


私は、妻を愛することの出来た 人間 であったことは、幸運だと思う。


“無限の命”を持てない代わりに“感情”を持つことが出来た。
“感情”を持つことで、妻を愛することが出来た。


“死”という仕組みを認めるしかないのか。


認めるにはまだまだ時間がかかるが、
私が“死”の必要性を理解出来るようになった時、
背負っている重しが少しだけ取り除かれる時だと思う。

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