これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

「変えられないもの」に対しての寛容さ

ニュースなどで、
生活困窮者に対する炊き出しの風景を見ることがあるが、
炊き出しに来ている人の心理を考えて見ると、


空腹を満たせる喜びもあるだろうが、
こういうところに並ばないといけない自分の現状を見つめてみて、
周りが幸せそうな情景を見たときの疎外感の方が大きいのではないか。


肉体的な満足と精神的な満足、この2つが揃っているのが理想だが、
片一方が欠けていると、幸福感は大きく減少する。


特に、精神的なものの欠乏は大きいと感じている。
承認欲求が満たされていない、尊厳をないがしろにされている
という疎外感につながりそうだ。


私の場合、
肉体的には、ある程度満たされていると思っているが、
精神的なものの欠乏感があるのは否めない。


隣から赤ちゃんの泣き声が聞こえるときがある。
うるさいと思ったことはなく、
生活しているんだなあ という温かい気持ちにさせられる。


ひとりで生活していると、その温かい生活感を感じにくくなっていて、
ちょっとロボットのような機械的な生活を送っていると感じる時がある。


妻がいた時との違いは、
その潤いのある生活がなくなったことだ。
乾燥した生活になっている。


潤いには水が必要だ。
その水分の役割を果たすのが、妻なのだが、
妻を引き戻すことは不可能となっている。


なので、その代替として「妻の記憶」に頼っているのが現実だ。
「リアルな妻」と「記憶の中の妻」
このギャップが
私の満たされない心を形成している。


今は、
「妻の思い出」と「妻のいない現実」を行ったり来たりしている。
忙しい。


「妻のいない現実」から逃げず、
現実と真正面から向き合うことが出来ればいいのだが。


そのためには、
今後、
この「変えられないもの」に対しての寛容さ、現状に即する柔軟さを、
私の精神領域に取り入れることが必要だと思っている。
いわゆる、諦観するということか。


高いハードルではあるけれど。

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