“命”とは
現在、パックご飯が食器棚に30個(5袋×6)ほどある。
それはそれで、何ら問題ではないのだが、
正味期限が、全て今年の4月と表示されている点が問題なのだ。
消費期限ではないので、食べても問題はないのだろうが、
今、4月なので、今食べないと、味がどんどん落ちていく。
なぜここまで食べずにいたのかというと、
去年、7月から、パックご飯を辞めて、ごはんを圧力釜で炊くようになったため、
おいしいご飯を食べたいことから、
パックご飯から縁遠くなり、賞味期限を確認することもなかった。
1日1個食べても、1ヶ月かかることになる。
その間、冷蔵庫で保存しているお米は減らないため、鮮度が落ちるが、
致し方ない。
“もったいない”を優先したい。
5月の中旬までを、“パックご飯”月間にすることにした。
妻を亡くして1年程は、
食べることに全く関心がなくなっていて、
食べたいものもない状態だった。
今は、幾分、食事も楽しみの一つとなっている。
ただ、
一人で食事をしている時や、食器を洗っている時、
妻を思い出す頻度が高くなっていることに気づく。
“食事”と“命”は関係性が高いため、そうなるのだろうか。
“命”とは、
“体”と“心”をくっつけている接着剤の様なものと考える。
命がなくなるということは、
それまで一体であった“体”と“心”が分離し、
体は消滅して、心(魂)だけが残った状態だと考える。
“体”は永遠ではないのは明らかだ。
心(魂)は残ると言ったが、
これは科学的に証明された訳ではない。
体と共に滅びるのかもしれない。
体と同じく永遠なものではないかもしれない。
だとしたら、
妻はすべてなくなったということになる。
それは悲しいことではあるけれど、
そうであれば、それでいいと思っている。
私もいずれ無になるということなので。
生命とはそんなものだと思えば、気が楽になる。