これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

妻に生かされている

毎年2月になると、
妻と行った2回の海外旅行を思い出してしまう。


2016年2月の「イタリア旅行」
2017年2月の「ナイアガラの滝・ニューヨーク旅行」
(なぜ2月の旅行になっているかというと、
毎年、大手旅行会社が企画する破格値段の旅行に乗っかるため)


昨日、
海外のニュースを紹介する番組を見ていて、
ニューヨークマンハッタンにあるタイムズスクエアの巨大スクリーンに、
お金を払って、誰でも15秒動画を流せるというサービスがあって、
サプライズでのプロポーズに利用されている様子が、紹介されていた。


その様子も面白いと思いながら見ていたが、
次第に、私の頭の中は、
妻との旅行での思い出に書き換えられて行った。


妻は、
ニューヨークの旅行から帰って、3ヶ月後の、5月23日に
余命1年のがん告知を受け、
その4ヶ月半後に自宅で亡くなった。


ニューヨーク旅行の最終日はフリータイムだったのだが、
妻は、
「疲れた」と言って、1日ホテルの部屋で過ごすことになった。
ホテルの1階にある食堂で、モーニングをともにした後、
私は1人で、マンハッタンを回った。


妻は、いつもエネルギーが不足気味の人だったので、
こういうこともある と思っていた。


でも、今考えると、
この時、すでに、がんが全身に転移していたと思われる。 
人生の経路を、線に見立てて、
それまで、別々に延びていた、妻の“人生線”と、私の“人生線”が
交わった(結婚)のは、1993年4月18日だった。


そして、
2017年10月6日、妻の線が消えて、交点はなくなり、
再び、私の“人生線”は単独線となった。


線が重なっていた時期は、しっかりと頭に記憶されているので、
複線から単線に戻ると、
どうしても趣のない生活を送っているように思ってしまう。


単線でも、生きてはいける。現に生きている。


でも、
妻に生かされているという感覚は、持つことが出来ない。
『生かされている』という感覚が懐かしい。


妻はいないのだから、
生かされる』ではなく、自分で『生きる』しかない。


ただ、しつこく諦めずに、
「宇宙に妻が存在している」と考えるならば、


『妻に生かされている』という感覚は、
私の心の中に、
自然な形で、蘇ってくるはずだ。

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